花菖蒲の歴史 6
江戸時代5 熊本花菖蒲の起こり


「立田川」(たつたがわ):菖翁が熊本に送った品種の一つで、多くの熊本系の品種がこの花の血を受け継いでいると言われる。


 菖翁が京都での務めを終え、江戸に帰った天保の頃、花好きな殿様、肥後熊本藩主の細川斉護公が菖翁の花菖蒲のうわさを聞き付け、その花をぜひ熊本でも作りたいと、お使番の吉田潤之助という人物を介して菖翁に花菖蒲の分譲を申し出ました。

 しかし菖翁は、「細川は金持ちであるから、堀切あたりの花屋から買ったらよかろう。」と断りました。菖翁は、自分が長年丹精して育成した品種が門外に出て、やがて俗人の手に落ちるのが嫌だったのです。

 さて、断わられた潤之助は、菖翁に言われるままに花屋を方々探したのですが、松平邸にあるような見事な花菖蒲はどこにも見当たりません。そこで松平邸出入りの植木屋に取り込んで、少しばかりのものを貰い受け(一説に五品種という)熊本へ送りました。

 その後斉護公は、天保四年に正式に潤之助を菖翁に入門させ(熊本側の史料から)、菖翁から花菖蒲培養、実生の手ほどきを受けさせますが、後に初め植木屋を通じて密かに苗を貰い受けていたことが菖翁に知れ、以降直接菖翁より苗を分けてもらうようになります。その時菖翁は、この花菖蒲を普通の植木屋に渡すとみだりに広がるから、誰彼に渡すことなく必ず秘蔵するようにと申し付けます。この事が、熊本における花菖蒲門外不出の鉄則の始まりとなりました。

 以降熊本と菖翁の関係は次第に緊密になってゆき、たまたま菖翁の家が火事になるという事件があった時(弘化二年の一月の事で、大切にしていた桜草が焼失してしまったという。)、熊本の花連から早速見舞金を送ったところ、菖翁は返礼として、一説に手元にある品種を全部熊本へ送ったともあります。

 そして嘉永四年、菖翁は細川公に『花菖培養録』を送り、翌五年潤之助にも送ると共に、正式に熊本へ花菖蒲を譲ります。その時、苗を分譲するにあたって自らの花の将来を案じ、先の門外不出と、良品種の作出にあたっては江戸と肥後との相互関係を条件としました。

 菖翁が熊本へ送った品種は記録があるだけでも六十品種を超え、これら熊本へ渡った菖翁の花菖蒲が、更に改良され発達していったのが熊本花菖蒲(肥後系)です。大正末期に一度だけ門外不出は破られ、それで今私たちは熊本花菖蒲(肥後系)というものを見ることが出来るのですが、熊本花菖蒲満月会では今日でも門外不出を固く守り、菖翁の正統であることを伝えています。


花菖蒲についてへ戻る

inserted by FC2 system