花菖蒲の歴史 5
江戸時代4 江戸の粋、受け咲き花菖蒲


岩手県平泉の毛越寺の花菖蒲園で撮影した花。
毛越寺は、花菖蒲園の造成時に明治神宮や堀切から苗を導入しており、栽培も行き届いているので、古い時代の品種がよく残されている。
この花は、多分「大鳴海」(おおなるみ)という品種と思われるが、強い受け咲きの花形を持ち、古い江戸花菖蒲らしいとても粋な花。


 堀切の花菖蒲園が大勢の人々でにぎわった頃、花菖蒲はすでに今日の花とあまり変わらないくらいまでに発達していました。そしてこの時代、江戸っ子に特に好まれたのが、花弁が垂れず水平に、またはやや抱え気味に開く、「平咲き」や「受け咲き」と呼ばれる花形でした。

 花菖蒲の原種であるノハナショウブの花形は、外花被の三枚が垂れています。そこからスタートした花菖蒲の花形も、江戸時代の中頃までは垂れ咲きの品種が主でした。と言うより、平咲きの花形はまだあまり発達していなかったのです。ところが江戸後期になると、平咲きや受け咲きの花が作り出され、がぜんもてはやされるようになります。

 これは、花弁が垂れた花より平に咲く花の方が、花が大きく立派に見えることによると考えられますが、ただそれだけでなく、やはりそこに「粋」を専らとする江戸っ子独特の美的感覚が息づいています。だらしなく垂れる花を好まず、花弁がぴんと水平に、ときには抱えるような花形を好んだのは、まさに江戸っ子の心情の現れなのです。

 このため明治時代に入り花菖蒲が海外に輸出された時、外国の人々は花菖蒲のことを「ソーサーアイリス」つまりお皿の形をしたアイリスと呼びました。そして明治以降、輸出のため外国人の好みに合うように、花菖蒲の花形はますます大輪になり、それにしたがって花弁は垂れ、受け咲きの花形は次第に作られなくなりました。

 戦後は肥後系や伊勢系が普及したこともあって、江戸花菖蒲もそれらとの交配が進み、江戸系のページに紹介した「昂」(すばる)のような、穏やかに垂れる花形が主流になり今日に至っています。

 江戸の気分を今に伝える受け咲きの花菖蒲は、一般の花菖蒲園にはあまり見られませんが、明治神宮御苑花菖蒲園や堀切菖蒲園など歴史のある園に、今日も保存されています。


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