花菖蒲の歴史 4

江戸時代3 堀切の菖蒲園


「泉 川」(いずみがわ)・何とも粋な六英の中輪花。下の文中にもあるように、江戸後期の堀切・伊左衛門の花菖蒲田で、物見高い江戸っ子のたちの名声を博したと伝えられる品種。


 現在の東京都葛飾区堀切は、花菖蒲園発祥の地です。この地に初めて花菖蒲が伝来したのは、いつの頃からか明らかではありませんが、一説によると室町時代に堀切村の地頭が奥州安積沼から花かつみ(花菖蒲)の種子を取り寄せ、自邸に培養させたのがその始まりといいます。

 また江戸時代、堀切は江戸に切り花を出荷していた生産地でもあったわけですが、文化年間(1804〜1817)堀切村の百姓伊左衛門(小高氏、我が国初の花菖蒲園、後の小高園々主)は、四季に栽培する草花のうち特に花菖蒲に興味を持ち、しきりに異種を探し求め、万年禄三郎という人物から「十二一重」を、さらに有名な花菖蒲の愛好家、松平左金吾(菖翁)から、「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受けその繁殖をはかったのが、堀切に花菖蒲が伝来した最初とも言われています。

 この万年禄三郎という人物は、当時本所の割下水に住んだ旗本です。万年は菖翁のように自作の品種を秘蔵することなく、花菖蒲の新花を作出しては販売していました。菖翁はそんな彼を「ああ、彼は花を好んでも愛さなかったのか、珍しい花が現れるとすぐ売ってしまったと聞く。」といって嘆いていますが、これらの品種が堀切の小高伊左衛門に渡り、以降堀切の花菖蒲は益々隆盛を極めるようになるのです。
 江戸時代の花菖蒲の育種家といいますと、松平菖翁ばかりが目立ちますが、菖翁以上に堀切の花菖蒲園の隆盛に貢献したのではないかと考えられているのが、この万年禄三郎です。この万年の作出花として、「長生殿」(ちょうせいでん)という品種が、こんにちまで残っています。

 二代目の伊左衛門も同じく花菖蒲の栽培に興味を持ち、全国各地から異種を移しその繁殖につとめた結果、品種も二百数十品種におよび、牡丹咲き(八重咲)や狂い咲きなどの奇花を生み出すことにも成功し、中でも「麒麟角」、「泉川」の二種は当時最も名花として江戸の人々の名声を博したと言います。

 こうして天保の末には銘花が出そろい、伊左衛門の菖蒲田は立派な花菖蒲園となりますが、この園が隅田川の上流向島・関屋の里に近く、田園の中にあってきわめて野趣にとみ、江戸近郊の行楽地として好適の場所であるばかりでなく、農家の草花として誰でも自由に見物ができ、濃艶な花菖蒲が園内にみち、江戸の人々の目を驚かせたので、とみに有名になったと思われます。

 この伊左衛門の花菖蒲園のほかに「武蔵園」も松平菖翁より品種を導入して以降、花菖蒲に専念、時を同じくして開業し、両園はほぼ接して開かれていました。そして広重や豊国の浮世絵にも描かれ、「江戸百景」「東都三十六景」「江戸名所四十八景」などにも載せられるほど、堀切の花菖蒲園は江戸人士の人気を集め、隆盛を極めてゆきます。天保年間に尾張大納言徳川斉昭公がこの景雅を賞愛し「日本一菖蒲」の折り紙を付け、園主に親書を書き与えたのは有名な話で、この画幅は今日でも堀切の小高氏方に保存されています。

 花菖蒲を花菖蒲園で観賞するという方法は、江戸の庶民が作り出した「江戸文化」です。これとは対象的に肥後系や伊勢系は、一部の上流階級の人々によって、鉢植えで観賞するのを目的として改良されて来ました。
 戦後全国各地に花菖蒲園が造成され、伊勢系も肥後系も花菖蒲園のなかに植え込まれるようになりましたが、本来の観賞法から考えると、これが間違いであることがわかります。花菖蒲園は江戸の文化、そこで観賞されるのは江戸花菖蒲であるべきで、伊勢系や肥後系は、本来植え付けるものではないのです。この意味で東京の明治神宮の花菖蒲園と葛飾区の堀切菖蒲園は、江戸花菖蒲の、それも古花のみでまとめられており、そのまま江戸時代の花菖蒲園の姿を見ることができます。
 

花菖蒲フォトギャラリー・江戸古花のページへ


花菖蒲についてへ戻る

inserted by FC2 system