花菖蒲の歴史 3
江戸時代2 松平菖翁の業績


嘉永6年本『花菖培養録』(国会図書館所蔵)に見られる、「宇 宙」(うちゅう・おおぞら)の図。この嘉永6年本『花菖培養録』は菖翁自筆の手稿本で、この図も菖翁みずから描いたもの。


 江戸時代後期、それまでの花菖蒲を飛躍的に発達させたのは、二千石取りの旗本、松平左金吾定朝、通称、菖翁(しょうおう)と呼ばれる人物でした。

 江戸時代も後期にさしかかる安永3年(1773)、江戸に生まれた彼は、父譲りの花好きで、若い頃からじつに様々な草花を栽培しましたが、花菖蒲もそのうちの一つで、江戸麻布桜田町(現在の港区元麻布三丁目、中国大使館近辺)の2400坪もの邸宅のなかで、60年以上にわたり花菖蒲の改良に取り組みました。

 40代の後半からは、京都町奉行などの役職のため15年間京都で暮らしましたが、そのときも花菖蒲を携え、京都でも官舎の園中で改良を続けました。
 59歳で幕職を辞した後は、麻布の邸内にて様々な草花を栽培するとともに、尚一層花菖蒲の品種改良に取り組みました。その結果、彼の花菖蒲はそれまでのものより群を抜いてすばらしいものに変化していったのです。天保年間の末頃には名花「宇宙」を作出します。

 菖翁の品種改良は、それまでの多彩ではあっても単純な花形だった花菖蒲をもとに、菖翁本人が言う業(芸、変化)を持たせ、花菖蒲の花形を飛躍的に発達させたことにあります。そうしたなかで宇宙(上図譜)のような牡丹咲きまで作り出したのですが、変化さえしていれば良いというわけではなく、花の持つ品格を非常に重視しました。この精神はその後熊本へ受け継がれ、また堀切に間接的かもしれませんが伝わり、現代に至るまで花の品位を重要視するという伝統は受け継がれています。菖翁がいなかったら、現在の花菖蒲は、これほど素晴らしいものではなかったでしょう。

 彼は、自作の花菖蒲を、晩年まで門外には出しませんでした。それは、父の代から長い年月をかけて苦心して改良した花菖蒲が世間に流れ、末は露天の花売りの手で売買されるのが嫌だったからです。しかし未曾有の珍花が咲く松平邸の花菖蒲は江戸中の評判となり、花が咲くと沢山の人々が彼の邸宅に押し掛け、門前市まで開かれるようになりました。そして我も我もと分譲を希望する人々を断り切れず、最後には乞われるがままに花を分け与えるようになったようです。


『花菖培養録』に見られる菖翁の
筆跡と「菖翁」と「定朝原州」の印


 そして菖翁は晩年生涯を追想し、自作の品種の紹介とその栽培方法、またその他の知見を語った花菖蒲の総合書として『花菖培養録』(かしょうばいようろく)という本を著わします。始め弘化2年(1845)に、『花鏡』(はなかがみ)という題名で著わされたこの本は、年代が嘉永に移るとともに『花菖培養録』と改題され、以降嘉永6年(1853)まで何回にもわたり、その都度一部内容を追加したり、不要と思われる個所を簡略化しながら著わされました。おそらく毎年何人かのために、『花菖培養録』を書き留めていたのでしょう。
 この本は現在、東京の国立国会図書館に4冊収められているのをはじめ、10冊以上の原本および写本が現存しており、花菖蒲の聖典として知られています。

 幕末の安政3年(1856)、84歳で菖翁は江戸に没しますが、彼が作り出した花菖蒲はじつに300品種にせまり、それらは『花菖蒲花銘』と『菖花譜』(共に国立国会図書館所蔵)という花菖蒲の品種目録に記されています。
 菖翁の死後、彼が作出した花菖蒲のすべては、遺族らにより堀切の小高園に売り渡されたといいます。そして、これらのうち20品種弱がかろうじて今日まで残り、江戸花菖蒲のなかでも特別に菖翁花と呼ばれ大切にされています。

 そしてこれらの品種が後に堀切の花菖蒲園に広まり、その後の江戸花菖蒲の発達に大きな影響を与えました。また翁は熊本へも花菖蒲を譲りましたが、これらが後に肥後藩士によって更に改良され、発達したのが熊本花菖蒲(肥後系)です。ですから、今日見られるほとんどの花菖蒲が、実に菖翁が作り出した花の子孫ということになるのです。


 花菖蒲は江戸時代、端午の節句の祭りの花としての性格を持っていました。堀切ではさまざまな切花を江戸向けに生産出荷していましたが、花菖蒲も端午の節句の祭りの花として生産しており、それが花菖蒲園に発展していったのが、堀切の花菖蒲園です。
 しかし菖翁は、節句の祭りの花という花菖蒲の性格を追求せず、たとえ節句には間に合わなくても、花そのものの美を追求し、花菖蒲を純粋な芸術にまで高めました。また「花菖培養録」などの著作を書き表すことで文化性を持たせ、その業績を熊本に伝えることでこの花を文化として後世に残しました。それが菖翁が花菖蒲中興の祖と呼ばれる所以です。

 このようなことから菖翁という人物は、花菖蒲の歴史を語る上で切っても切れない人物であり、多くの資料文献や逸話が残っています。彼が作出した花菖蒲の中で、彼自信が絶賛して止まない最高の名花である「宇宙」(うちゅう・おおぞら)は今日も現存し、花菖蒲マニア必携の逸品として、大切に栽培されています。

現代に残る菖翁花のページへ


花菖蒲についてへ戻る

inserted by FC2 system