花菖蒲の歴史 2
江戸時代1 菖翁時代以前


「一迫」(いちはざま)の実生から生まれた絞りの5英咲き小輪花。花びら一枚の形状は原種に近い単純なもの。江戸時代中期の享保18年(1733)に出版された『地錦抄附録』のなかに「五ようしぼり花しょうぶ」という、この花と同じ花容をもった花が図指されている。


 江戸時代になると、開幕より58年後の寛文11年(1671)、尾張徳川藩主光友公が、拝領した22,9ヘクタールもあったという下屋敷・戸山荘内に、花菖蒲園を作ったという記録があります。

 家康、秀忠、家光と、三代に続く将軍の花好きは、まず大名や旗本の追従をまねき、全国のみならず海外からも珍しい花々が江戸に集まり、以降江戸は世界に類を見ない園芸都市に発達してゆきますが、花菖蒲も各地方に産する変わり花が江戸に集まり、この戸山荘での花菖蒲栽培のように、大名らの広大な庭園で栽培され、実生もなされていたであろうことが考えられます。

 次に延宝9年(1681)水野元勝の著したわが国最初の園芸書『花壇綱目』に花菖蒲が記載され、「花紫白浅黄薄色しほり飛入り(斑入り)あり、咲比5月」という解説とともに、その栽培や「白せんよ花菖蒲」、「紫せんよ花菖蒲」などの品種が記されています。

 そして元禄8年(1695)には、上駒込染井村の植木屋・伊藤伊兵衛三之丞の著した『花壇地錦抄』に8品種、次いで宝永7年(1710)三之丞の息子政武が著した『増補地錦抄』に、32品種もの花菖蒲が記載されるようになります。
 これらの事柄から、花菖蒲は江戸時代の前期にはかなり色彩の分化も進んでおり、特に元禄時代を中心として比較的短期間にかなり発達が進み、品種の数も増えていったことがわかります。特に『増補地錦抄』には、大輪や極大輪と記述される品種も登場し、色彩に加え花形の変異の幅もかなり広くなり、この時代にして花菖蒲がとても発達していたことがわかります。また、この時代の花菖蒲の姿をこんにちに伝えているのが、山形県長井市のあやめ公園に残されている長井古種と呼ばれる一群です。


 この『増補地錦抄』が著された後、天明9年(1789)には『花形帳』という江戸中期の園芸植物の花形目録に、29種が記載されています。この目録にある品種は品種名のみで、その花容はほとんど記されていません。

 続いて文政5年、晩年、築地の浴恩園に隠居した幕府老中、松平定信(白河楽翁)は、浴恩園の園中に花菖蒲園を作り、そこに咲く花のうち45品を『衆芳園草木画譜』に描きました。これは幅30センチほどの絵巻物で、浴恩園中にて楽翁が収集した植物がたいへん写実的に描かれ、当時の園芸植物のレベルを知る上でとても参考になる文献です。ここに描かれている45品の花菖蒲は、品種名はなく、ほとんど現在の長井古種か、それからやや発達した程度の花々です。しかしその場で写生したかのように写実的に描かれており、その時代の花菖蒲の発達の度合いがたいへんよくわかります。また、花色の変化はかなり進んでいたと言うよりほぼ出揃っており、白地に紅の砂子や白に紫脈芯濃紫の平咲き六英花なども見られます。  
 この画譜の製作者である松平定信という人物は、寛政の改革を断行したことで有名ですが、菖翁も同じ久松松平の流れとして、定信とは幼少の頃から交流があったようです。定信が築地の浴恩園に花菖蒲を植えた頃、菖翁は江戸から離れてはいましたが、この浴恩園の花は菖翁が譲ったものであることも十分に考えられます。


 このように花菖蒲は、江戸時代の前期頃からとても長い時間をかけて人々に栽培されるなかで、徐々にではありますが確実に発達してきたことが覗われます。そして江戸時代後期、それらの花を元に花菖蒲を飛躍的に改良発達させたのが、次のページで紹介する菖翁こと、松平左金吾定朝でした。




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