松平菖翁著『花菖培養録』現代語訳


 松平左金吾定朝(1773〜1856)は、江戸時代末期、江戸麻布桜田町(現在の港区元麻布三丁目・中国大使館近辺)に居を構えた二千石の旗本であった。

父(定寅)の影響を受け、幼少の頃より百花を好み、役職の傍ら様々な草花を栽培したが、その中でも特に花菖蒲を愛し、自らを晩年「菖翁」(しょうおう)と号した。父の代から引き継いだ花菖蒲の改良を重ね、それまでの花菖蒲を飛躍的に発達させ、それ以降の花菖蒲隆盛に多大な功績をもたらした、花菖蒲中興の祖とも称される人物である。

『花菖培養録』は、菖翁が晩年自らの花菖蒲培養のすべてを語ったもので、最初弘化四年(1845)に『花鏡』と題して著わされ、年代が嘉永(1848)に移るとともに『花菖培養録』と改題された。そして嘉永六年(1853)の最終稿に至るまで、現在菖翁の原本および写本あわせ、およそ十冊程度が現存している。各年の稿本はほぼ同じ内容だが、菖翁の推敲によりそれぞれ削除された部分や、新たに付け加えられた部分などが観察される。



 紹介する現代語訳文は、菖翁が嘉永六年に著した『花菖培養録』をもとに、「加茂元照『花菖培養録現代語訳』(日本花菖蒲協会会報22号)」を参考にして、ある程度の意訳も含め解読しました。それでもかなり難しい文章ですが、花菖蒲文化のみならず、日本の園芸文化史の点からも一大記念碑とも言うべき名著です。花菖蒲の神様、松平菖翁が語りかける口調で書かれたこの文章を、多くの人に読んでいただきたいと思います。

(97/5/25)            


   『花菖培養録』に入る

とても長い文章です。時間のある時ゆっくりと読んでください

inserted by FC2 system