花菖蒲の歴史 7

伊勢花菖蒲の起こり


「銀沙灘」(ぎんさなだ):伊勢花菖蒲の中でも、古くから伊勢松阪地方に保存される「松阪古種」と呼ばれる品種の一つ。


 上品で繊細な色彩に、たおやかな垂れ咲きの花形。伊勢花菖蒲はどことなく深窓の佳人を思わせます。この系統の起りは江戸時代末期、徳川紀州藩士の吉井定五郎という人物にさかのぼります。

 この人物は安永五年(1776)に生まれ、松阪殿町に住み、熱心な園芸家で花菖蒲を深く愛好しました。一説には彼が野生のノハナショウブの中から花の形の変わったものを見つけ出し、それを親として改良したとも言われています。しかし彼が花菖蒲の改良を始めた頃には、既に江戸で松平菖翁が実生改良し、多くの品種を作っており、諸大名の庭園や堀切の小高園などに植えていたので、それらを参勤交代の時、紀州藩士が松坂に持ち帰ったり、江戸にいる松阪商人が郷里松坂に植えたなどが伊勢花菖蒲の起りの通説になっています。

 古来伊勢の人は、狂いのある垂れ咲きの花を好みました。伊勢の三名花、伊勢菊、伊勢撫子も伊勢花菖蒲同様、垂れ咲きで狂いのある花形が特徴です。
 吉井は江戸花菖蒲の中から、花弁が垂れ下がり、狂いのあるものを選び出し、時にはノハナショウブの中から、花の変わっているものを見つけ出し、それらと交配して、次から次へと花弁が垂れ下がったり、狂いの出る花を目標に改良を重ね、伊勢花菖蒲という新しい系統を作り出していったのではないかと考えられています。

 定五郎の歿後も、嗣子吉之丞が品種改良を受け継ぎ、多くの品種を作り出しました。その後もこの系統は、松阪の野口才吉、長林堅三郎、津の吉川万吉、久保の旧家で大地主の乾達二、そして松阪の青木清次郎ら、比較的少数の人々の間に受け継がれて栽培され、一般に普及することはありませんでした。

 伊勢花菖蒲が一般に知られるようになったのは、戦後、三重大学の故冨野耕治博士が数多くの品種を作り出し、また、昭和27年氏の尽力により伊勢花菖蒲が三重県の天然記念物の指定を受けてからです。昭和45年には花菖蒲が三重県の県花に指定されました。今日では数多くの品種が一般に普及し、他の系統の品種との交配も進んでいます。また古くから伝わる古品種の数々は、松阪市の青木家および「松阪三珍花会」が保存に努めています。


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