花菖蒲の歴史 8

明治から戦前 1 堀切花菖蒲の隆盛と衰退


堀切菖蒲園 花菖蒲園発祥の地、東京都葛飾区堀切に、今日も残る唯一の花菖蒲園。江戸時代から作り伝えられてきた「生きた江戸の文化財」とも言える江戸花菖蒲の古花が中心で、往時の堀切の姿をこんにちに伝えている。


 明治維新後の不安の時期を過ぎてまもなく、堀切は江戸時代にも増して訪れる人々で賑わうようになりました。江戸時代からの小高園、武蔵園に続いて明治中期には堀切園、観花園、堀切茶寮が、また四つ木には明治24年に吉野園が開園しています。加えて明治36年には現在の明治神宮御苑花菖蒲園が明治天皇の命によって作られました。
こうして堀切は明治の中期頃から本格的に遊山の地となり、明治大正の文化と結びつくようになって行きました。

 品種も江戸時代にも増して数多く作られるようになり、時代の風潮や海外への花菖蒲輸出のためか、大輪で豪華な花が好まれ作出されるようになりました。今日にも残る吉野園作出の「御所遊」という品種は、熊本花菖蒲にも負けない豪華な花容を持ち、この時代に作られた花の特徴をよく現しています。

 しかし昭和に入る頃になると、これほどまでに栄えた堀切の花菖蒲園は衰退の道を歩み始めます。その理由は、関東大震災により東京の人々が荒川より向こう側の堀切地区などに疎開したため、この地に工場や住宅の進出など都市化が急速に進み、遊山者の足を遠のかせると共に、川の水質の汚染や花菖蒲特有の連作障害の影響もあり、栽培および園の経営が次第に困難になっていったからのようです。大正8年には観花園がまず閉園し、昭和初期には武蔵園、10年代には吉野園が閉園、昭和17年には小高園、菖蒲園が閉園になるなど、堀切の多くの花菖蒲園は時代の流れの中に消え去ってゆきました。

 そして終戦後ふたたび開業した堀切園は、昭和28年に「有限会社堀切花菖蒲園」と名を改めますが、昭和30年頃には経営困難を来し東京都がこれを買収、都市公園として施設を整備し、昭和35年から有料公園として開園します。そして昭和50年4月からは葛飾区が管理することになり、今日に及んでいます。これが花菖蒲園発祥の地・堀切に今日も残る唯一の花菖蒲園、「葛飾区立堀切菖蒲園」です。


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