花菖蒲の歴史 9

明治から戦前 2  熊本花菖蒲の普及


「滝の瓔珞」(たきのようらく):明治時代に熊本満月会々員によって作出された品種。花弁にひだが多く、その姿が瀑布が水煙を上げていく段にも重なって落ちるようだとして、この咲き方を「瓔珞咲き」と呼んだ。この花が作出されて以降、花の芯は「玉洞」を、花弁はこの「滝の瓔珞」を手本に多くの品種が作出された。熊本花菖蒲の歴史と伝統を伝える名花。


 熊本花菖蒲(肥後系)は、江戸時代後期に松平菖翁が自作の名花を熊本に送ったのがその始まりです。この花菖蒲を熊本では最初「花連」という熊本藩士により構成される花の愛好団体が維持管理し、更に改良が進められました。この花連では単に花菖蒲だけでなく、椿、芍薬、菊、朝顔、山茶花などいわゆる「肥後六花」と呼ばれる花々が育成されましたが、藩士たちは、それを侍独自の特権とも考え、一種の公事であり、武技の延長であるとも考えました。そうした中で、花菖蒲が普及するにつれ、苗が会員以外にも漏れ出したので、これを封じるべく取り締まり令ともいうべき規則が設けられ、菖翁の申し付け通り花菖蒲は以降厳重に秘蔵されることとなりました。
 この「花連」という組織は、明治維新の廃藩により自然消滅となりますが、その一部門であった花菖蒲の部門は、明治10年頃に「満月社」として創立し、後に「満月会」と改名、今日に及んでいます。

 初め菖翁から熊本にもたらされた品種は、江戸末期の流行の形であった平咲きや受け咲きの品種が殆どでした。しかし熊本では、花菖蒲を鉢で栽培し室内にて鑑賞したため、それに合うように花と草姿の調和が重要視され、花弁も横からの鑑賞に向くように徐々に垂れてゆきました。また、花の芯を人の心にたとえ、整然と整うことを理想としました。豪華さの中にゆるぎない品格をたたえた熊本花菖蒲は、まさしくこの満月会の会員たちのたゆまぬ努力により完成されたのでした。

 さて、この満月会に西田信常という人物がいました。彼は熊本に住んでいましたが、大正12年に彼の叔父の住む横浜にて新たに植木業を営む事になり、一家を挙げて横浜に移りました。そして、満月会を退会するにあたって、それまでの会への功績が多大であったことが認められ、特別に花菖蒲の一部を分与され、販売を許されたのです。
 しかしこれは西田家側の言い分で、満月会側としては苗の会以外への持ち出しは許される事ではなく、まして販売などもっての外で、この事件は菖翁が熊本に花菖蒲を託されて以来、会員が心血をそそいで守り、改良を重ねてきた秘蔵の品種を横浜に持ち逃げされ、個人の商売目的に使われたという事であり、会の人たちにとっては恨んでも恨み切れない、まさに痛恨の出来事だったのです。
 さて、昭和5年英国のブルックリン植物園のジョン・リード博士夫妻が来日されたのを機に、日本花菖蒲協会が結成されました。そして、豪華で品格の高い花容を持った熊本花菖蒲に関東の人々は目を奪われ、またたく間に普及してゆきましたが、門外不出であった熊本花菖蒲が一般に紹介された裏には、このような出来事があったのです。

 個人的に私は、秘蔵の品種を不正に持ち出し、商売に利用したのは良くない事だと思います。しかし、熊本花菖蒲が一般に紹介されたことで花菖蒲の人気が高まり、戦後花菖蒲園や花菖蒲愛好家が全国的に増え、それらを利用した品種改良が進み、その結果、現在これだけの素晴らしい花々を、私たちは見ることが出来るのです。


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