花菖蒲の歴史 10

戦後から現在まで


「舞扇」(まいおうぎ)平尾秀一博士が、昭和30年代の初めに作出した品種。今日でも人気高い平尾先生の代表的傑作種。


 太平洋戦争では数多くの貴重な品種が絶滅しました。江戸花菖蒲は、この大戦と昭和22年の利根川の洪水により完全に絶滅したかに思われましたが、船橋市の後藤和三郎氏などの尽力により、からくも全滅をまぬがれました。

 肥後花菖蒲の発売元である横浜の衆芳園でも、大戦中は家業放棄の状態になりましたが、西田信常氏とその子らの努力によって、かろうじて全滅をまぬがれました。そして終戦後の昭和23年頃から、再び新品種を世に送り出しています。

 昭和20年代後期には伊藤東一氏が京王百花苑に花菖蒲を植え付け、「京王百花苑花菖蒲園」が誕生します。そしてこの頃より、伊藤東一、平尾秀一、光田義男、冨野耕次ら戦後の育種家たちによって、花菖蒲の品種が非常な勢いで増えはじめ、以降昭和の40年代にかけて全国で数多くの花菖蒲園が作られてゆきます。
 この時代の特徴は、戦後の高度成長を背景に、極大輪の肥後系に人気が集中したことでした。ことに平尾秀一博士は、「舞扇」、「業平」、「千鳥」など、花菖蒲園で群生させても十分美しく鑑賞できる肥後系を多数作出し、この時代の花菖蒲ブームの仕掛け人となりました。氏は1988年6月に永眠されましたが、花菖蒲のみならず、数多くの植物を改良すると共に、日本の園芸界全体を理想的な方向へ先導されたすばらしい人物でした。

 今日の花菖蒲も、以前として肥後系の極大輪花に人気があります。しかしその一方で、1980年頃から長野県上伊那郡辰野町在住の吉江清朗氏によって、極早咲きの江戸系の品種が多数作出され、また時をほぼ同じくして、花菖蒲園向きの江戸系を中心とした品種が、当加茂花菖蒲園によって作出されはじめました。これらの品種は一輪の花自体は肥後系の極大輪花にはかないませんが、丈夫で群生美が美しく、また数多くの極早咲きの品種が作出されたことで、花菖蒲の開花シーズンが確実に長くなりました。
 さらに今日では、ピンク系や黄花系、また紫に白い覆輪のあるタイプなど、今まであまり見られなかった色彩を持つ優秀な品種が多数作出され、とてもカラフルになって来ています。それに伴い、「江戸系」や「肥後系」などと言った昔からの「系統」にとらわれない、中間的な品種も多くなって来ました。
 またこうした中で、古くから伝わる文化財的な品種を中心に、品種の保存に力を入れようとする動きも、高まって来ています。

 先のバブル景気は、第2次の花菖蒲園造成ブームとなり多くの花菖蒲園が新たに作られましたが、現在ではそれも落ち着いています。そして今日これだけ多くの草花があふれ、昨今のガーデニングブームの中で、花菖蒲は個人で栽培して楽しむ花というよりも、花菖蒲園に見に行く花となりました。
 しかし、日本の梅雨の季節を鮮やかに彩る草花として、花菖蒲は以前として高い人気を保っています。それは日本人が長い年月をかけて育んで来たこの花が、現代を生きる私たちの心をも捉えているからに他なりません。


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