平尾さんの花菖蒲

        加茂花菖蒲園 加茂元照


「舞扇」(まいおうぎ):昭和30年代初頭に作出された、平尾先生の代表的傑作種。明るい青紫にとても鮮明な白筋が入り、今日でも抜群の人気を誇る。


園芸研究家のもうひとつの顔

 神奈川県の逗子市に住む園芸研究家・平尾秀一さんが、花菖蒲の季節に急逝されて、はや4年が過ぎようとしています。平尾さんと言えば、園芸研究家としてあまりにも有名でした。そのわかりやすく愛情に満ちた語り口に魅せられた読者も多かったはずです。
 平尾さんは、すべての園芸家にとって親切このうえない案内人でした。プロ・アマチュアを問わず、直接であれ間接であれ、その教えを受けなかった園芸家はまれと言ってもいいのではないでしょうか?
 そんな平尾さんが、卓越した育種家でもあったことはご存知でしょうか? なかでも、花菖蒲に関しては「花神」よも呼ぶべき存在でした。 平尾さんの命日である6月8日を前に、平尾さんの花菖蒲について、私なりに総括して見ることにしました。

 平尾さんの花菖蒲の威力は、それはたいしたものでした。敗戦でまだ混乱の最中だった1950年頃から次々と画期的な新花を神様のごとく作出され、戦後の花菖蒲ブームをぐんぐん盛り上げていったのですから。 戦前にはわずか数カ所しかなかった花菖蒲園が、今日、200ヶ所以上にも増え、毎年数百万人の入園者でにぎわうようになったのも、花菖蒲がアメリカを中心に世界中に急速に広がりつつあるのも、「平尾さんの花菖蒲」によるところが大なのです。
 新花作出にあたって平尾さんは、明確にそのターゲットを意識していました。鉢作りを主とするマニア集団と、花菖蒲園を訪れる一般愛好家との両方にです。しかも、時代の流れを正確に捉えていました。



日本の花から世界の花へ

 平尾さんの花菖蒲に関する仕事を振り返ってみますと、大きく3つの時期に分けるような気がします。
 第一期は、「舞扇」、「業平」の時代です。鉢植え主体のマニアが、「舞扇」の豊かな芸に心酔しました。一方花菖蒲園では、「業平」のビロード状に輝く巨大な古代紫の花色が、見る人をアッと驚かせたものです。平尾さん自身は「西田衆芳園の名花と広島の精興園の名花を掛け合わせたに過ぎない」と謙遜なさっておられましたが、これらの花によって1950年代からの「平尾さん主導型の花菖蒲ブーム」は始まったと言えましょう。
 それまでの極大輪系は性質が弱く、栽培に名人芸が要求されました。さらに、開花したら座敷に取り込んで、風雨や強い日光から保護しなければ、立派な姿を見せてくれませんでした。ところが、平尾さんの花菖蒲は丈夫で、外でもよく咲いたのです。これは、時代の要求にも合致しました。
 また、それまでの庭園用品種は花形が未熟で、色彩も単調でした。それに引き換え平尾さんの花菖蒲は、花形、色彩共に飛躍的に進歩していたばかりでなく、「伊豆の海」のように一茎に7花も咲く多花性があると思えば、「雪姫」、「潮の煙」、「多摩の霞」などのように、それまでにない色の八重咲きの品種が付け加えられ、実にバラエティに富んでもいたのです。これが大いに受けたのは言うまでもありません。

 第2期は、「清少納言」、「春の海」の時代です。花菖蒲が急速に全国に普及する原動力を担ったのが、これらの花でした。その色彩は日本の伝統美にあふれ、入園者を大いに堪能させました。園の管理者にとっても、丈夫で繁殖の良い点がありがたく、日本中に平尾さんの花菖蒲が広がることになりました。
 この1970年代は、平尾さんがアメリカのペーン氏と親交を結び、アメリカ生まれの新しい江戸系(とでも呼びましょうか)のユニークさを取り入れて、新しい江戸花菖蒲の開発に取り組んだ時期でもあります。平尾さんは、完全な「インターナショナル ガーデン バラエティ」として花菖蒲を狙った、国際的な野心作を次々と発表なさいました。
 それまでの作出花が日本での鉢植え庭植え兼用種中心であったのに対し、この時期からはっきりと「世界の庭園へ植えられる花菖蒲」へと焦点を切り替えたのです。 「水玉星」、「千代の春」などは、素直な美しさと共に無類の繁殖力の強さと強健さを誇ります。誠に花壇向きでポピュラーな性格を持っています。

 第三期は、舞台がアメリカへ移ります。平尾さんはペーン氏亡き後、アメリカの花菖蒲の育種リーダーとしてマクウェイン氏を選びました。そして彼に、最上の花菖蒲の品種一式を贈ったのです。もちろん育種の素材としてです。その中には、記念すべき花菖蒲初の四倍体品種「ピンクミステリー」も含まれていました。
 「ピンクミステリー」は、平尾さんがアメリカのマルクスから入手して、4倍体であることを発見したいわくつきの品種です。ところが、当マルクス自身はその株をなくしてしまい、当時、世界でも平尾さんしか持っていなかったものです。
 この「ピンクミステリー」は、その後平尾さんの期待通りマクウェイン氏の手によって更に改良が進められ、4倍体品種群誕生の役割を立派に努めました。  近年アメリカでも花菖蒲の普及はめざましく、アメリカ花菖蒲会の活動はわが国のそれをはるかに上回るほどです。立派な会報が年2回発行され、品種リストも毎年更新されています。年に一度の大会は3日間にわたって盛大に行われます。
 こうした活動の中から生まれたのが、平尾さんが手伝い、マクウェイン氏が書いた『ザ・ジャパニーズアイリス』という本です。この本は世界中で販売され、一気に花菖蒲の国際普及を進めました。



多面なアプローチ

 以上、平尾さんの花菖蒲作出における大きな流れを見て来たわけですが、平尾さんは時々色々なテーマにもチャレンジなさいました。そのことについても、幾つかご紹介しましょう。

1 ブルーの花
 江戸系の古花の「浅妻船」から出発し、「伊豆の海」、「藍草紙」、「碧鳳」と、次第にブルーへの接近を試みました。別なコバルトブルーの追求からは、「金剛城」、「碧涛」などが生まれました。いずれも過去には見られなかった「輝くブルー」への接近でした。この過程での副産物として「早朝の花菖蒲の美しさ」をテーマにした「朝戸開」も誕生しました。

2 夕暮れの美
 「濃紺系の花は、夕暮れに浮き上がって来ます。」とおっしゃられ、「夜の虹」、「夜光の珠」などの品種を作られました。前述の「朝戸開」と共に、時間帯別の美しさを主張した新しいジャンルの花です。

3 玉洞芯
 熊本花菖蒲の中でも理想の芯の形を持つ「玉洞」の芯を継承した白花を追求され、「澄心」、「白玉兎」、「白鳥」、「白玉楼」、「清鶴」などを作出されました。このような伝統への回帰は、平尾さんの花の多くに見られ、平尾さんが花菖蒲の伝統美を継承しながら、新しい品種を作出していったことがよく分かります。

4 孫筋
 「舞扇」の筋は、にじみない細い白筋で、。親筋、子筋、孫筋まで鮮明に入ります。この優秀な性質を受け継いだ品種として、「千代扇」、「伊達扇」、「紅扇」などがあります。鉢植えを座敷に持ち込んでじっくりと鑑賞する時、これらの品種の持つ精緻な筋の芸にはいまでも驚かされます。

5 肥後系八重咲き
 それまで殆ど見られなかった肥後系の八重咲きを、多数作出されました。「新朝日の雪」、「千鳥」、「雪千鳥」(写真)など、まさに豪華絢爛という言葉がぴったりな極大輪の品種たちが人々を魅了しました。こういった豪華な極大輪種は、一般に風雨に弱く、花首も倒れやすいものですが、平尾さんはそこらへんも考えて選抜されているので、花首もしっかりとしていて、花菖蒲園でも十分利用することができます。

6 極晩生
 「太閤」、「磯の朝風」、「夜光の珠」など極晩生品種によいものがあります。通常、極晩生種は露地では暑さに負けてしっかり咲かないものですが、平尾さんの花はきりっと整った咲きぶりで、花菖蒲の季節を締めくくります。



花に表された思想とポリシー

 平尾さんの花菖蒲の中には、花弁が縮れて雌蕊に巻き付いた「貝細工」のような奇花や、「小笹川」のような小輪花もあり、実に多種多様である点が特徴です。一定の理想形だけを追うというところは全くありませんでした。その理由をご自分では次のように語っておられました。  「一神教の西洋で生まれたジャーマンアイリスが特定の理想形を追うのが当然なら、日本で花菖蒲の多種多様な花形を追求するのも当然です。なぜなら、元来わが国は多神教の国なのだから。」
 この東西文化の根本の差については、平尾さんの著書『花菖蒲大図譜』に英文でも記載されています。これが、アメリカ花菖蒲会の各種文献に引用され、国際常識として定着したのも、平尾さんの功績と言えるでしょう。

 命名に関しても、他の人たちの意見を大いに取り入れました。最初の大スター「舞扇」、「業平」は、花菖蒲研究家の三鹿野さんの命名でした。平尾さんは花菖蒲の命名については持論をお持ちでした。「新品種は無限に出来ても、良い名前は有限だ。スターであるからには、それらしい名前でなければならない。」とおっしゃられ、命名にはずいぶんと慎重でした。


 平尾さんは生前、160品種にせまる花菖蒲を作出され、これらの花菖蒲は別に「平尾系」とも呼ばれます。この内、現在私の所で保存している品種は約130品種程です。
 花菖蒲に限らず、育種されてから長い年月を経ると株自体が老化してきて、選抜当初のような力強さが失われて行くものです。平尾さんの花菖蒲も例外ではなく、品種によっては往年の精彩を失いつつあるものも出て来ました。  しかし、残された品種の大部分から、まだ十分に平尾さんの思想とポリシーを伺うことができるのは、私たちにとって本当に幸いです。        


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