花菖蒲発達の背景となったアヤメ文化 
文化の中の花菖蒲 (小原流挿花2005月号より抜粋)
                 加茂 元照


水田の畦道に咲くノハナショウブ。稲作の指標としてのノハナショウブを考えるとき、田の畦に咲くこの花は、あやめ文化のルーツを見る感がある。青森県三沢市にて。

梅雨を告げる季節の花・稲作の指標

 縄文時代末期に大陸から到来した稲作は、非常な速さで全国に普及しましたが、当時は暦がなく、季節の花が農耕の指標でした。

 稲作には水が必要で、雨を待つ昔の人たちは、あやめ=ノハナショウブの開花を見て、梅雨の到来を知りました。

 私たち日本人は、二千年を超える昔から、桜を見て野に下り、耕して籾を播き、花菖蒲の開花で田植えの時期を知って農作に励むといった、鋭い季節感を養ってきたのです。

 現在のように、安定した稲作が出来るようになったのは、科学技術が発達した今世紀に入ってからで、江戸時代中期までは天候不順などで多くの人が飢饉で餓死していましたから、天候不順などの指標となる、季節の花をみつめることの大切さが、生活に深く浸透していたのです。

 


サトイモ科のショウブの花

奈良時代に制定・端午の節供のあやめ

 屋代弘賢の『古今要覧考』(1810)に「続日本記に云う天平十九年(747)五月、太上天皇詔に、むかしは、五月の節、つねにあやめをもってかずらとなす、このごろすでにこの事さだまる、今より後、菖蒲のかづらにあらざるものは宮中に入ることなかれ」とあります。

 清少納言の『枕の草紙』(1008年頃成立)には、「その日は菖蒲うち葺き世のつねのありさまだにめでたきものを、殿のありさま、ところどころの御桟敷どもに、菖蒲葺き賜はすれば、拝して腰につけなんどしけんほど、いかなりけむ」と書かれています。

 これらから「端午の節供」を菖蒲で飾ることはいったんは衰えて聖武天皇のころに復活したと推測することができます。

 ここで言う「菖蒲」はアヤメ科の花菖蒲ではなく、霊験ありとされるサトイモ科の菖蒲のこと、漢名は 白菖 で「菖蒲」はセキショウの漢名です。当時としてはどちらの「あやめ」と呼ばれたことから、花菖蒲も次第に「霊験ある花」となっていったとされます。しかし、奈良時代に菖蒲が制度として登場する以前から、日本には自生のノハナショウブが「あやめ」と呼ばれており、霊験ある花とされていたと考える方が自然ではないかと思われます。その証左として例えば『万葉集』(八世紀末頃成立)には菖蒲、あやめ、あやめぐさを詠んだ歌が十二首あります。これらはすべて端午の節供を飾った菖蒲の葉姿のみを詠み込んだもので、花は全く登場しません。

 多分あやめの花を詠んだ歌は、選者によって除かれたのでしょう。『万葉集』では奈良朝廷の方針に従って、サトイモ科の菖蒲を詠んだ歌だけ拾ったと考えられます。

 


甲冑に見られる花菖蒲紋

甲冑に見る花菖蒲紋様・霊験ある花

 平安時代の終わりころから、武士の甲冑の装飾に花菖蒲紋様が多く見られます。これは花菖蒲に邪悪な敵から身を守る霊験を、期待してのことだというのがわかります。

 この花菖蒲紋はすべて白抜きで表されています。霊力を現すには白抜きでなければならなかったのでしょう。兜、鎧、手甲、矢筒の紐にいたるまで、要所々々にずらりと白抜きの花菖蒲紋様が連なっているさまは、まるで古代の土器に縄文がぎっしりと刻まれているかのようで、この隙間なく花菖蒲紋を並べることによって霊力をなるべく大きくしようと考えたのではないかと思います。

 ここで注目したいのは、この紋様がサトイモ科の菖蒲ではなく、アヤメ科の花菖蒲であることです。花菖蒲紋様は甲冑の守護として、サトイモ科の菖蒲よりも、霊力があるとされていたということが伺え、生死の境や武運長久を願うときには、土着の花菖蒲の方が、外来の菖蒲を圧倒していたことを表しています。

 この考えをもう少し進めると、花菖蒲の霊験には火に対する古代信仰が関係している可能性が浮かんできます。赤紫のノハナショウブの花が、草原に点在するさまは、火を思わせるものがあり、暗い竪穴住居に燃える「神聖な火」として崇められ、それがいつしか信仰(霊験)になり、鎧などの紋様に表現されてくるようになったと考えられます。


いずれがあやめ

『源平衰盛記』(鎌倉時代後期成立)の?(ぬえ)退治で名を馳せた源三位頼政の詠んだ「さみだれに 沼の石垣水こえて いずれがあやめ引きぞわづらう」が有名で、これはどれも優れていて選択に迷うということを言っていますが、当時菖蒲と花菖蒲の両方ともに「あやめ」と呼ばれていたために、たいへん紛らわしかったことから「いずれがあやめ」という表現が流行していました。

 この歌は、その言いまわしをうまく読み込んだもので、頼政が鳥羽院の最愛のあやめの前に懸想し、やがて院はこれを知るところとなり、頼政を試そうと五月五日の夕暮れに、あやめの前と、それに似た女二人を加え、同じ姿をさせて「みごと当てたらあやめの前をそちにとらそう」との難題を出します。困った頼政は、前記の歌を詠み、院は御感のあまり、自らあやめの前の手を取って、頼政に賜ったと記されています。


このように花菖蒲は、「あやめ」という名前で、古くから私たち日本人とかかわってきました。このような文化的土台が、江戸時代に花菖蒲を未曾有に発達させる原動力となっていることは、間違いありません。


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